私の言葉を考える

 「どうして母は”ふつう”にしゃべれないんだろう」

 「どうしてぼくは”ふつう”じゃない家に生まれてしまったんだろう」

  もう二度と友人の前で喋らないで

  ぼくと一緒に外を歩かないで


下記の記事を読んだ時、私は聴覚障害はありませんが、これらの言葉が胸に突き刺さりました。

海外で子どもを育てている方なら、似たようなことを我が子に言われた経験がある方も少なくないのではと思います。

私も娘に、ここまで否定的ではなく軽く冗談めかしてではありますが

「イタリア語の発音おかしい」「変なの」等と言われたことは確かにあります。

私の場合は障害ではなく、単なる私の外国語習得の努力不足を指摘されているわけですから、ごもっともですと反省するばかりですし、娘とはずっと日本語で会話していましたので「別にいいじゃないの」とあっさり聞き流すこともできました。

子どもの成長の過程において、反抗期も重なり日本語学習にきつく反発されるというケースも少なくありません。我が子に日本語を習得してもらいたいと願っても、子どもに「私はイタリア人だからイタリア語しか喋らない」と拒否されたり、日本語学習を「ここでは必要ない」と夫や舅姑に好意的に見てもらえないという話も聞いたことがあります。

考えれば、イタリアで生まれ育つ子どもがわざわざ苦労して日本語を習得しても、日本語話者の親と日常会話をするくらいしか使い道がないのに、なぜそんなに必死に日本語を勉強させようとするのかと第三者に思われるのは、ごく自然なことなのかもしれないとは思います。

日本語習得に費やす時間とお金と情熱を現地での学校の勉強に集中させ、医者や弁護士になった方がよっぽど合理的だと言う主旨の意見を拝聴したこともあります。

そう言う意見や話を聞く度に、悲しいような淋しいような、「いや、そうなんじゃない」と言う気持ちになりました。上手にこの気持ちを説明できないでいましたが、この記事を読んだ時にすとんと腑に落ちました。

言葉は単なる道具ではなく、その人自身でもあるので、それを恥ずかしいとか無駄だとか、否定されたり拒否されれば、それはそれは悲しいのです。

私は自分の子と日本語で喋らなくてもイタリア語で意思疎通を図る方法もありますが、耳の聞こえないお母さんには手話以外で直接会話する方法はありませんから、その悲しさ寂しさは私以上だったことでしょう。

私は私の言葉で子どもと話したい。この気もちだけでここまで来たのかもしれません。

こどもの にほんご

nipponica イタリア・ボローニャ 幼児からの継承日本語クラス